1、輝きを放っていた集落
阿南町和合に移住を決めていた連れ合いと出会って、初めて和合を訪れた時に、私はこの山あいの風景に一目惚れしてしまった。そして結婚を機に1999年春からこの和合で暮らし始めた。
強靭な生活力に裏打ちされた確かな暮らしの風景は、四季折々の山のうつろいに溶け込んで映え、輝いていた。そして、それらを背景に伝統行事や各集落のお祭りがあり、家ごとに盆、正月、彼岸以外にもこまごまとした祈りの行事が一年を通して丁寧に行われていた。こうした行事は暦として洗練され、この地域に暮らすマニュアルのようなものに思えた。
季節ごとの行事には、皆が楽しみにしている食べものがだいたい決まっていて、それを目指して頑張って働いて作って、それ以外の日に食べ過ぎてしまうことがないような規律のように思えた。この山間部に暮らして行くための知恵の集積ではなかったろうか。この安心感と安定感は、私が求め続けていた「持続可能な暮らし方」だった。
2、年中行事と伝統食
とりわけ冬の和合の行事は、3月の彼岸明けまで細かくあった。そのたびに大黒様やお庚申様など様々な神々と、先祖代々の仏様に供物をするから、供え物が10個で足りている家はなかった。春から苗作り、田んぼ作りと頑張って、田植えが終わると、 ぼたが崩れないように祈りながら皆でほおばるねぎらいのボタモチは恵比寿大黒様と共に。もう少し頑張ると農休みに朴葉餅。さらに農繁期を越えてひと段落する頃に「盆よ、盆よと春から待ちる。盆が過ぎたら何を待つ」と盆歌にもある、一番楽しみなお盆が来る。秋には栗のおはぎ、彼岸の入りから明けまでは毎日違うものを先祖代々の仏様に供えて、少し仕事量の緩む季節にも忙しく過ごす。冬中の楽しみは「一年の計は金山寺にあり」といっても過言でない「金山寺」作り。なす、きゅうり、みょうがや山のきのこを季節ごとに塩漬けして保存しておき、冬に塩抜きをして麦豆麹と合わせて作る漬け物である。家ごとにこだわりと自慢の味があった。
これらは私がたまたま垣間見ることができたことで運よくご相伴にあずかれた懐かしい味の思い出である。
3、人口減少とともに
私は1967年に生まれ東京の郊外で育った。10代後半から、人間は生きているだけで他の生き物に迷惑をかけているのではないかと考えていた。人間として生きることの意味を苦々しく感じるところから人生が始まっている。最初に就職した政府開発援助の調査機関では、当初、オルタナティブ=代替案、サスティナブル=持続可能な、ということが注目されはじめていた。それらをどうやって実現できるのかと考える先輩たちの勉強会に参加して以来、それをずっと考えることになった。持続可能な暮らしを求めて東京を離れ、たどり着いたのが和合だった。
この土地は、戦国の世に疲れ果てた武士たちが安寧を求めて移り住み自給自足の暮らしを確立したと言われている。その人たちと、古くは縄文時代から住み続けていた人たちとが、和合して暮らして行きましょうと、「和合村」が拓かれたとのこと。以来、塩以外はなんでもまかなえたという豊かな暮らしが強固に築かれた。その最後の場面に立ち会えたことを、今は本当に幸運だったと思っている。その風景を支えてきた方々が、一人、またひとり亡くなるごとに、人の住んでいた証はたちまち草木に覆い尽くされ山にかえってゆく。
この寂しさに耐えかねて、きっと私はこの地を離れるのだろうと思っていた時もあった。が、この数年は季節ごと、仕事ごとに亡くなった方々の思い出が蘇り、彼らにいつも語りかけられている。寂しいどころか、こうやってここで暮らしていく選択しかないことに励まされている。
4、伝統をつなぐ
和合地区は、山また山を刻む川沿いの谷筋に集落が散在していて、平らな土地はほぼ無い。田んぼと家が建つ土地は、先祖代々が人力で切り拓き石垣を積んで築き上げてきた。畑は基本的に斜面のサカバタ(坂畑)。山仕事、養蚕、少しの田んぼと雑穀や野菜、特産品の原木椎茸、みょうが、こんにゃくなどを作って隙間なく働いていた。
私が和合に住み始めた頃、坂畑にはほぼこんにゃくが植えられていた。古くから在来と言われるこんにゃく芋を自家用程度に作っていたと聞いたこともあるが、特産品と位置付けられ注力されるようになり、最盛期はこんにゃくの収入で子どもを都会の大学に行かせることができたという。ところが中国からこんにゃく粉が輸入されるようになってたちまち値が下落し、「作っても儲からないが、畑を荒らすわけにはいかないから作り続けている」と、何人もの方から聞いた。それでも当時2トンものこんにゃく芋が農協に出荷されていた。春に植えて、初夏に最初の除草をして敷き草(萱か藁)が敷き詰められると、山の中の斜面のこんにゃく畑が一斉に陽の光を受けてキラキラと黄金色に輝いていた。息をのむ光景だった。冬にはどの家に行っても「こんにゃく持っていきな」と言われるくらい当たり前に作られていて、「お腹の砂払いだよ」と言いながら新陳代謝の悪い時期にたくさん食べて過ごしていた。なんと美味しいものだろう、これがこんにゃくなのかと思って、私は「和合のさしみこんにゃく」を商品化して販売するようになり十余年になる。
そのこんにゃく芋も、今は栽培する人が激減し、入手が難しくなってしまった。私自身が受け継いだ種芋を絶やしたくないと、緊張感を伴って栽培して いる。植え付ける時は四本の鋤鍬でザックザックと調子良く畝をきり、芋3個分あけて植え付ける。芽 が出始めるころ、除草して敷き藁を敷く。近年の猛暑や日照りはこんにゃくには厳しそうでオロオロと見守る。10月にはいよいよ収穫。こんにゃく専用の二本鍬があって、これが芋を一番傷つけないで掘ることができる。そしてよく乾燥させて貯蔵。軍手をはめて何度となく土を落とし乾かすのは結構手間のかかる作業である。
かつては、和合の人々がこれらを黙々とこなしているのを見て、気が遠くなるような作業だと思い傍観していたけれど、私もいつの間にか当たり前に出来るようになった。この一連の仕事の全てが、たくさんの人たちの面影とともにあり、仕草、言葉がよみがえる。その芋でこんにゃくを作るときも「さぁ、練って練って練りからかせよ」という声が私の中では変わりなく生きている。このように、季節ごとのあの仕事、この仕事、毎年繰り返し思い出される先輩たちの言葉を辿っていくうちに、一年がたちまち過ぎてしまう。
5、繋がる伝統
「和合の念仏踊り」は、2014年になってやっと選択無形民俗文化財から、保存会悲願の重要無形民俗文化財に昇格したばかりだが、当時から地方マスコミには毎年一通り取り上げられていた。和合に来てから、最初に「和合の念仏踊り」がどんなものかもわからないまま練習に誘ってもらって1ヶ月で本番を迎えた。私は篠笛をやらせてもらっているが、なんとか音らしい音が出るまでには3年かかった。そんな私でも、とにかく一員としてもらったことが嬉しくて仕方なかったし、時々は伝統芸能フェスティバルなどに呼ばれて遠足気分で皆と出かけるのもとても楽しかった。また、印刷業の経験があったこともあり、2007年発刊の『和合の念仏踊り』を保存会編纂チームとともに編集させてもらった思い出は尊い。私にとって「和合の念仏踊り」がこの地に生きる上で大きな誇りになっていることは間違いない。
この20年余りの間にメンバーはガラッと変わった。かつては約30人の役者のうちIターン者はわずか4~6人だった。今年のお盆は、和合の地元衆は灯籠・旗の2人、太鼓2人と太鼓持ち2人、笛の2人だった。一方、笛はIターン参加者の中に大人も子供もやりたい人がたくさんいて10人くらい。ヒッチキは4人のところ、5~6人の若者が練習していて日替わりで元気良く飛び回わる。その他、太鼓、太鼓持ち、ヤッコ2人、花4人などすべての顔ぶれがよそ者になり、平均年齢がぐんと下がった。20年前には、古老の方々が所作について喧々諤々と持論を飛ばしあっていて、いかにも伝統芸能らしい練習風景であった。本番には、静かな夕闇に響きわたる念仏や和讃の熟練された歌声に聴き入ったものであった。600年前から伝えられるともいう和合の念仏踊りが、時代の変遷の中でどれだけ変わり続けて来たかは計り知れない。やり方を変えたり、場所が変わったり、衣装や道具も変化してきたことだろう。
私が和合に来てから生まれた青年が、この夏、自ら念仏や和讃を覚え、名手の生き返りかと思うほど素晴らしい歌声を響かせていて驚いた。伝統だから残さなくては、継承しなくては、ということでなく、誰に強制されるでもなく、この春から独り立ちした10代の彼が、お盆の帰省を楽しみにしながら、ただただやりたくて仕事の合間に自ら覚えてきたのだろう。またIターンの第二世代の10代、20代の若者も楽しくて仕方ないという様子で集まり、14、15日は念仏踊りの前に手踊りもする。盆唄も覚えて来て毎年磨きをかけて上手にうたう様子に感激してしまう。こんな時代が来るとは本当に想像ができなかった。
伝統文化が継承されるということは、この地に暮らす人がそれを誇りに思って暮らし続けているということで、そのことさえ続く限り、これまで何百年もそうして来たように、問題に直面するたびに話し 合い、折り合いをつけて存続させていけるのではないだろうか。
以前、私が調べたところ、1804年に282人に過ぎなかった和合の人口は、明治時代に急激に増加して最大時の1921年には2274人に達していたが、私の移住した頃には350人くらいまで減少して過疎化が進んでいた。さらにこの20年でも下降の一途を辿っている。2021年10月現在の和合地区(巾川、帯川地区を除く)の人口は168人。そのうちIターン者は52人18世帯(山村留学家庭を含む)。20年前は移住者の数は7~8人3~5世帯だった。この間出入りは多いものの徐々に定着率も上がってきている。風土に馴染める自給自足系を志向する人たちが定住する傾向にある。そして「類は友を呼ぶ」との言葉の通り、定住者の暮らしぶりを知って移住希望者が増えてきて、住む人が居なくなって久しかった山の中の一軒家に再び明かりが灯り始めている。
『伊那民俗』127号(伊那谷民俗研究会会報)への寄稿文より