畑苗代

うちでは稲の苗を、畑で育てています。
畑苗代(はたなわしろ)と呼ばれています。
多くの方は、田んぼに苗代をつくって水を張った状態で育てますが、畑では基本的には雨水だけが頼りです。
畑苗代は水が少ない状態で育つので、田植えした後に根が張って活着するまでの日数が短いのです。

畑苗代

種籾は温度をかけて少しだけ発芽させます。

畑苗代

事前に平らにならした畑に発芽させた種籾を播いていきます。

畑苗代

振るっておいた土を被せていきます。

畑苗代

表面を平らにならして

畑苗代

乾燥や朝の低温から守るために、ビニールを被せます。

畑苗代

この状態でしばらく置いて、芽が出たころにビニールを外します。
田植えは5月末から6月頭くらいに


1、輝きを放っていた集落 

阿南町和合に移住を決めていた連れ合いと出会って、初めて和合を訪れた時に、私はこの山あいの風景に一目惚れしてしまった。そして結婚を機に1999年春からこの和合で暮らし始めた。

強靭な生活力に裏打ちされた確かな暮らしの風景は、四季折々の山のうつろいに溶け込んで映え、輝いていた。そして、それらを背景に伝統行事や各集落のお祭りがあり、家ごとに盆、正月、彼岸以外にもこまごまとした祈りの行事が一年を通して丁寧に行われていた。こうした行事は暦として洗練され、この地域に暮らすマニュアルのようなものに思えた。

季節ごとの行事には、皆が楽しみにしている食べものがだいたい決まっていて、それを目指して頑張って働いて作って、それ以外の日に食べ過ぎてしまうことがないような規律のように思えた。この山間部に暮らして行くための知恵の集積ではなかったろうか。この安心感と安定感は、私が求め続けていた「持続可能な暮らし方」だった。

2、年中行事と伝統食

とりわけ冬の和合の行事は、3月の彼岸明けまで細かくあった。そのたびに大黒様やお庚申様など様々な神々と、先祖代々の仏様に供物をするから、供え物が10個で足りている家はなかった。春から苗作り、田んぼ作りと頑張って、田植えが終わると、 ぼたが崩れないように祈りながら皆でほおばるねぎらいのボタモチは恵比寿大黒様と共に。もう少し頑張ると農休みに朴葉餅。さらに農繁期を越えてひと段落する頃に「盆よ、盆よと春から待ちる。盆が過ぎたら何を待つ」と盆歌にもある、一番楽しみなお盆が来る。秋には栗のおはぎ、彼岸の入りから明けまでは毎日違うものを先祖代々の仏様に供えて、少し仕事量の緩む季節にも忙しく過ごす。冬中の楽しみは「一年の計は金山寺にあり」といっても過言でない「金山寺」作り。なす、きゅうり、みょうがや山のきのこを季節ごとに塩漬けして保存しておき、冬に塩抜きをして麦豆麹と合わせて作る漬け物である。家ごとにこだわりと自慢の味があった。

これらは私がたまたま垣間見ることができたことで運よくご相伴にあずかれた懐かしい味の思い出である。

3、人口減少とともに

私は1967年に生まれ東京の郊外で育った。10代後半から、人間は生きているだけで他の生き物に迷惑をかけているのではないかと考えていた。人間として生きることの意味を苦々しく感じるところから人生が始まっている。最初に就職した政府開発援助の調査機関では、当初、オルタナティブ=代替案、サスティナブル=持続可能な、ということが注目されはじめていた。それらをどうやって実現できるのかと考える先輩たちの勉強会に参加して以来、それをずっと考えることになった。持続可能な暮らしを求めて東京を離れ、たどり着いたのが和合だった。

この土地は、戦国の世に疲れ果てた武士たちが安寧を求めて移り住み自給自足の暮らしを確立したと言われている。その人たちと、古くは縄文時代から住み続けていた人たちとが、和合して暮らして行きましょうと、「和合村」が拓かれたとのこと。以来、塩以外はなんでもまかなえたという豊かな暮らしが強固に築かれた。その最後の場面に立ち会えたことを、今は本当に幸運だったと思っている。その風景を支えてきた方々が、一人、またひとり亡くなるごとに、人の住んでいた証はたちまち草木に覆い尽くされ山にかえってゆく。

この寂しさに耐えかねて、きっと私はこの地を離れるのだろうと思っていた時もあった。が、この数年は季節ごと、仕事ごとに亡くなった方々の思い出が蘇り、彼らにいつも語りかけられている。寂しいどころか、こうやってここで暮らしていく選択しかないことに励まされている。

4、伝統をつなぐ

和合地区は、山また山を刻む川沿いの谷筋に集落が散在していて、平らな土地はほぼ無い。田んぼと家が建つ土地は、先祖代々が人力で切り拓き石垣を積んで築き上げてきた。畑は基本的に斜面のサカバタ(坂畑)。山仕事、養蚕、少しの田んぼと雑穀や野菜、特産品の原木椎茸、みょうが、こんにゃくなどを作って隙間なく働いていた。

私が和合に住み始めた頃、坂畑にはほぼこんにゃくが植えられていた。古くから在来と言われるこんにゃく芋を自家用程度に作っていたと聞いたこともあるが、特産品と位置付けられ注力されるようになり、最盛期はこんにゃくの収入で子どもを都会の大学に行かせることができたという。ところが中国からこんにゃく粉が輸入されるようになってたちまち値が下落し、「作っても儲からないが、畑を荒らすわけにはいかないから作り続けている」と、何人もの方から聞いた。それでも当時2トンものこんにゃく芋が農協に出荷されていた。春に植えて、初夏に最初の除草をして敷き草(萱か藁)が敷き詰められると、山の中の斜面のこんにゃく畑が一斉に陽の光を受けてキラキラと黄金色に輝いていた。息をのむ光景だった。冬にはどの家に行っても「こんにゃく持っていきな」と言われるくらい当たり前に作られていて、「お腹の砂払いだよ」と言いながら新陳代謝の悪い時期にたくさん食べて過ごしていた。なんと美味しいものだろう、これがこんにゃくなのかと思って、私は「和合のさしみこんにゃく」を商品化して販売するようになり十余年になる。

そのこんにゃく芋も、今は栽培する人が激減し、入手が難しくなってしまった。私自身が受け継いだ種芋を絶やしたくないと、緊張感を伴って栽培して いる。植え付ける時は四本の鋤鍬でザックザックと調子良く畝をきり、芋3個分あけて植え付ける。芽 が出始めるころ、除草して敷き藁を敷く。近年の猛暑や日照りはこんにゃくには厳しそうでオロオロと見守る。10月にはいよいよ収穫。こんにゃく専用の二本鍬があって、これが芋を一番傷つけないで掘ることができる。そしてよく乾燥させて貯蔵。軍手をはめて何度となく土を落とし乾かすのは結構手間のかかる作業である。

かつては、和合の人々がこれらを黙々とこなしているのを見て、気が遠くなるような作業だと思い傍観していたけれど、私もいつの間にか当たり前に出来るようになった。この一連の仕事の全てが、たくさんの人たちの面影とともにあり、仕草、言葉がよみがえる。その芋でこんにゃくを作るときも「さぁ、練って練って練りからかせよ」という声が私の中では変わりなく生きている。このように、季節ごとのあの仕事、この仕事、毎年繰り返し思い出される先輩たちの言葉を辿っていくうちに、一年がたちまち過ぎてしまう。

5、繋がる伝統

「和合の念仏踊り」は、2014年になってやっと選択無形民俗文化財から、保存会悲願の重要無形民俗文化財に昇格したばかりだが、当時から地方マスコミには毎年一通り取り上げられていた。和合に来てから、最初に「和合の念仏踊り」がどんなものかもわからないまま練習に誘ってもらって1ヶ月で本番を迎えた。私は篠笛をやらせてもらっているが、なんとか音らしい音が出るまでには3年かかった。そんな私でも、とにかく一員としてもらったことが嬉しくて仕方なかったし、時々は伝統芸能フェスティバルなどに呼ばれて遠足気分で皆と出かけるのもとても楽しかった。また、印刷業の経験があったこともあり、2007年発刊の『和合の念仏踊り』を保存会編纂チームとともに編集させてもらった思い出は尊い。私にとって「和合の念仏踊り」がこの地に生きる上で大きな誇りになっていることは間違いない。

この20年余りの間にメンバーはガラッと変わった。かつては約30人の役者のうちIターン者はわずか4~6人だった。今年のお盆は、和合の地元衆は灯籠・旗の2人、太鼓2人と太鼓持ち2人、笛の2人だった。一方、笛はIターン参加者の中に大人も子供もやりたい人がたくさんいて10人くらい。ヒッチキは4人のところ、5~6人の若者が練習していて日替わりで元気良く飛び回わる。その他、太鼓、太鼓持ち、ヤッコ2人、花4人などすべての顔ぶれがよそ者になり、平均年齢がぐんと下がった。20年前には、古老の方々が所作について喧々諤々と持論を飛ばしあっていて、いかにも伝統芸能らしい練習風景であった。本番には、静かな夕闇に響きわたる念仏や和讃の熟練された歌声に聴き入ったものであった。600年前から伝えられるともいう和合の念仏踊りが、時代の変遷の中でどれだけ変わり続けて来たかは計り知れない。やり方を変えたり、場所が変わったり、衣装や道具も変化してきたことだろう。

私が和合に来てから生まれた青年が、この夏、自ら念仏や和讃を覚え、名手の生き返りかと思うほど素晴らしい歌声を響かせていて驚いた。伝統だから残さなくては、継承しなくては、ということでなく、誰に強制されるでもなく、この春から独り立ちした10代の彼が、お盆の帰省を楽しみにしながら、ただただやりたくて仕事の合間に自ら覚えてきたのだろう。またIターンの第二世代の10代、20代の若者も楽しくて仕方ないという様子で集まり、14、15日は念仏踊りの前に手踊りもする。盆唄も覚えて来て毎年磨きをかけて上手にうたう様子に感激してしまう。こんな時代が来るとは本当に想像ができなかった。

伝統文化が継承されるということは、この地に暮らす人がそれを誇りに思って暮らし続けているということで、そのことさえ続く限り、これまで何百年もそうして来たように、問題に直面するたびに話し 合い、折り合いをつけて存続させていけるのではないだろうか。

以前、私が調べたところ、1804年に282人に過ぎなかった和合の人口は、明治時代に急激に増加して最大時の1921年には2274人に達していたが、私の移住した頃には350人くらいまで減少して過疎化が進んでいた。さらにこの20年でも下降の一途を辿っている。2021年10月現在の和合地区(巾川、帯川地区を除く)の人口は168人。そのうちIターン者は52人18世帯(山村留学家庭を含む)。20年前は移住者の数は7~8人3~5世帯だった。この間出入りは多いものの徐々に定着率も上がってきている。風土に馴染める自給自足系を志向する人たちが定住する傾向にある。そして「類は友を呼ぶ」との言葉の通り、定住者の暮らしぶりを知って移住希望者が増えてきて、住む人が居なくなって久しかった山の中の一軒家に再び明かりが灯り始めている。

 

『伊那民俗』127号(伊那谷民俗研究会会報)への寄稿文より


⬛︎火鉢のある生活

火鉢

 

火鉢の温もりは、薪ストーブのようにホカホカと贅沢に暖かいのとはだいぶ違っている。

けれど、陽だまりで少しぬくまった部屋に火鉢があると、陽がかげって障子を閉めたあともそのままのぬくもりがあってなんとなく寒くない。

昭和50年頃きちんと建てられた日本家屋8畳の部屋の居間で長い時間を過ごす小寒~大寒(1月5日から20日)の頃は、灯油ストーブだけでは手がかじかんでしまう。

火鉢があるとすごくあったかくは無いけれど不思議に指先がかじかまない。

愛媛県の「鹿ノ川洞窟」ではおよそ30万年前といわれている史跡から人骨や石器と一緒に少量の木炭が発見されたと何かの記述で見た。

貴重な薪を燃やすと熾ができ、燃焼を止めると炭のようなものができ保存もきく。再び着火すると煙や炎が出ず、火は長持ちして調理などに都合が良いということは、火を毎日使っていると自然にわかってくることだなぁと実感できる。

30万年の長い積み重ねに想いを馳せながら、炭焼きの技術や炭とともに暮らす道具やその仕草がここまでに到達し、その延長上でこの素敵さを享受させていただいていることに静かに感動する日々。

火鉢を使うようになってから4、5年が経ち、火鉢に癒されながら色々考えてきとことをちょっとまとめておきたいと思った次第。

■■■使い方について■■■

⬛︎戌の日に新しい灰を入れる

新しい灰を入れ、炭を熾す日。火の用心を祈り「戌の日」を狙って準備をしなくてはいけない。「戌の日は◯日だなぁ」などと言い合って、和合中がだいたい同じ日から始まる冬の暖。私が移り住んで来た2000年頃は確かにそうだった。

炭の健全な燃焼と火力を調整するために大切なのが灰の状態。

灰は灰でも重い灰はダメで、通気性の良い軽い灰であることが重要。
私の場合、毎日の風呂焚きで新鮮な灰には困らないのでシーズン始めには必ず灰を入れ替える。全部は大変なので半分くらい。

何年も前のある日に、たまたま稲藁をひとかかえ(20束;200株分くらい)燃やして灰を作っている方を見かけてその訳と炭の扱いの秘訣を教わることができたのは幸運だった。
すぐに真似をして同じように稲藁を燃やしてみた。黒いような藁灰を入れると何日かで美しい綺麗な白い灰になった。

ふわふわと通気性の良い灰は、炭が温まると炭と一体になってぽわぽわと赤くなって、まるで水のように波打ち不思議だ。このような灰でなければ思ったような火力調節はできない。

⬛︎火鉢を使うのにあると便利な道具

火鉢

五徳

小ぶりな火バサミ(トング)

灰ならし(灰を寄せる道具)

火起こし(炭に火をおこすために)

大きな植木鉢を載せるためのキャスター付き台(可動式になると断然便利)

⬛︎火力調節

始めの着火は火に炭を入れるとか、ガスコンロで「火起こし」を使うなど、やり易いようで。

着火時は炭ひとつひとつが全体に赤くならなくても2つか3つの炭がそこそこ赤くなれば良い。

火鉢の中心をかきわけて、炭が入るような直径のくぼみを作り、炭の赤いところが合わさるように、通気性が良いように並べる。

そのまま動かさずにじわりじわりと火が熾るのを待つ。始めにピシピシと音を立て、全体が赤くあかくなり、いつのまにか静かに燃えて鉄瓶がシュンシュンと蒸気してくる。

火鉢

 

火をつなぐため早めに新しい炭を入れておこう。赤い熱い炭の下に大きめの炭を入れておく。

すぐに火を強くしたい時はこまかい炭を上に足し、灰をかきわけて空気の通りを良くする。

火を沈めたければ灰を寄せる。

寝る前には、灰を掘って新しい大きい火持ちの良さそうな炭を2個以上一番下に入れて、燃えている炭を上にのせて、すっかり灰をかぶせる。

火鉢

 

翌朝も火鉢のぬくもりで部屋がなんとなく冷え切っていない。

そして灰の中からあかあかと暖を放つ炭を掘り出すときは必ずワクワクして一日が始まる。

炭の樹種によっても、火持ちも熱量も違う。

 

⬛︎注意喚起!換気は大事!

一番気になる一酸化中毒ですが、炭が完全燃焼していればまぁまぁ大丈夫ということがわかりました。

なんとなくやる気がおきない、と思ったら一酸化中毒の傾向なのですぐに換気をしましょう。

私も使い始めた頃は要領を得なくて、火鉢の火の調整に火吹き竹のようなものを使ったり、無理やりな燃やし方をして何度となくかなり重度の一酸化中毒になりました。

なんとなく気づくとだるくて何もやる気がおきない。

どうしたことかと思っているうちに頭痛がする。

だるくて身体中が重く、階段が登れない。

などの症状には呉々も気をつけましょう。

この程度であれば寝て起きれば治りますので。

 

 

炭焼きのことはこちら


和合では移住者が居抜きの家に住まわせてもらうということが多く、家とともにそのまま大切に使わせていただくものも結構あります。
その中でも火に関する道具は使ううちにしみじみと人と火のあゆみなどに思いを馳せたりします。
おそらく日本中の山間地や里山では暮らしの中に、薪や炭など火を使う道具が多くあると思います。
いかに少しの燃料を有効に使うか
よく考えられて発展してきたのだなぁということを道具から教えてもらえます。
これは蓋つきのかまどです。

ぬかくど

「ある時期、これがすごい竈だということで、皆んなこぞって買ったんだ」と聞きました。
見かけの割に軽くって、力持ちの私(50代女)ならひょいと持ち上げ好きなところで使えます。
色々調べても類似のものは中々見つかりませんが「ぬかくど」という商品が近いかもしれません。
ずっと使いたいと思っていて久しぶりに使いましたが
改めて燃焼効率の素晴らしさに感動しました。

ぬかくど

これからしっかり使っていきたいです。


すでに1週間経ちますが、パプリカの定植をしました。

パプリカ

 

パプリカ

最初についている花は取ってしまいます。
樹に栄養を送り、充分に樹が育ってから花を育てます。

パプリカ

もうアブラムシがついています。
写真の中央の小さい葉の根元にいます。(写真をクリックして拡大してください。)

パプリカ

無農薬栽培なので、ハケでアブラムシを落とします。

パプリカ

てんとう虫も頑張れ。
といってもアブラムシを食べるのは成虫じゃなく、幼虫なのですが。


私たちのお米は「秋晴れ」という品種です。
これは50年以上前に愛知県の試験場で開発された品種で、コシヒカリと違ってさらっとした食感で、ササニシキに近いものがあります。
玄米を炊くときには内なべ付きの圧力鍋で、浸水しないで炊くと逆にモチモチした食感になります。
白米でも玄米でも冷めても美味しいと評判です。

今では栽培する人はほとんどいないので、うちで種を継いでいます。
昨年のモミから種もみを選別する塩水選という作業を昨日やりました。

種もみの中には実入りが少なく軽いものがありますが、そんな種は発芽しないことが多いので、選別して実入りが良い、重いものだけを種まきします。

塩水選

用意するものは、塩、ザル、生卵など。

塩水選

大きな桶に塩水を作りますが、比重が1.13になるようにする必要があります。
生卵を泳がせて、頭が少しでる程度の塩水がだいたい比重1.13なので、その目安になります。

塩水選

種もみを入れてかき混ぜます。

塩水選

浮いて来たモミは、軽くて実入りが少ないのでザルですくって捨ててしまいます。

塩水選

沈んだ種もみはネットに入れて小分けにします。

塩水選

立ち枯れ病、イモチ病などを防ぐためには、種もみを消毒することが有効です。
普通は農薬で消毒しますが、うちでは60度のお湯に10分間ひたすことによって消毒します。
温湯消毒といいます。

塩水選

乾燥している種もみを発芽するには、充分に水を吸わせなくてはなりません。
来月なかばのモミまきの日まで、流水にさらして充分に水を吸わせます。
浸種といいます。

毎年春先に塩水選をすると、いよいよ稲作が始まるという気持ちになります。